そうだったのか! 松下幸之助さん
私の事務所に一枚の写真が飾られています。
真ん中に雑誌「財界」の主幹 三鬼洋之助氏、
その隣に、昭和52年(1977年)に松下電器三代目社長に、
末席の取締役会から22人抜きでなられた山下 俊彦氏とでの記念写真があります。
今期で28期を迎える後継社長塾の塾長を私は、
8期から塾長となって20数年間続いています。
スタート時の8期~10期の頃は、
今のように定員24名も集まらず、苦労しました。
日本経営合理化協会の事務局も
「人寄せパンダ」として、このような著名、有名人の講師を呼んでいただいたのです。
その時のジャーナリスト関係者は、
松下幸之助氏の抜擢英断 山下俊彦氏の松下”大企業病”との闘い、
活力を取り戻すための”山下革命“と呼び、
その大改革を見事、幸之助相談役の期待に応えた、と評しています。
山下氏に「僕でも社長が務まった」の本から質問をぶつけてみましたが、
あたり障りのない質問でありました。
「山がお好きで、トレーニングのため勝尾寺に登っていらっしゃるとか?」
「どこにお住まいですか? 青山台 私、津雲台ですが・・・・」
「松下の社長がお住まいの千里ニュータウン 青山台にそんな広いおうち
ありましたっけ・・・・?」とかでした
①「そもそも山下さんに社長を推挙したのは どなたですか?」
②「本当は22人もごぼう抜きすれば、
先輩取締役からの嫉妬、嫌がらせはなかったのですか?」
③「どのようにして、だれが、古参の幹部の首を切ったのですか?」
④「出戻り社員が 幹部 → 取締役 → 社長になれるほど
松下に人材がいなかったのですか?
幸之助相談役が末席の山下さんを知る由もないはずですが…?」
⑤「創業者 松下幸之助氏は、片腕の高橋荒太郎氏や
4人の副社長から社長を選ばなかったのですか? その理由は?」
この私の松下電器においての疑問、質問に対する解答が、
今 発売の「パナソニック人事抗争史」 岩瀬達哉著 講談社
の本が明らかにしています。
一度、退社した出戻り子会社の工場長の山下氏、
技術力を発揮していた部下の水野博之、
ともども副社長の高橋荒太郎氏や谷村 博蔵氏らが本社に呼び戻し、
ウエスト電気の立て直し,冷機事務所での在庫販売で力を発揮したとのことです。
①の答え
抜粋人事の実行者は、幸之助の息子の 松下正冶氏、
当初 正冶社長の後継者は 東 国徳さんと言われていました。
正冶64歳 東氏63歳、1歳違い。
性格も合わず、正冶氏に苦言を呈した幸之助の番頭を
ことごとく去ってもらうためで、正冶氏が当初の人事案をひっくり返したとのこと
②社長就任3年間で、28人の役員陣14人を入れ替え、
53年、54年の株主総会で創業者幸之助以外
明治生まれをすべて辞めてもらっている。
マスコミは”山下革命”と称し、内外からも批判に合っていた。
しかし、会長松下正治の力も借りて、ばっさばっさと古参を切っている
③松下幸之助自身が、気が付けば昔を懐かしみ話せる相手がいなくなり、
その寂しさと憂鬱を、昭和57年の経営方針発表会で2時間に渡り 爆発させている
「単なる自分の小さな知恵、才覚で全体を批判したり、
過去を批判することは断じていけない、許されないことだ!」
山下俊彦氏は、芯の強い性格で、
次次に手を打って行ける能力の備わったクールな人物だったのです。
その山下氏が、幸之助氏に社長就任の折に「大切な仕事」を担わされていたが、
とうとうその問題は自分が手を下さす、先送りにしています。
松下幸之助氏も家庭内の女房族には手を焼いたようですね。
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