ある日 突然 危機が起こる
太平洋戦争最中、昭和17年に生を受け、食べるものがない戦後廃墟の大阪で幼児時代を過ごしました。
極貧とはどんなものか・・・・食べるものが不足し、三度の飯が食べれない生活
ノミやシラミに血を吸われ、回虫に腹を下し、栄養失調で緑色の鼻をたらし、頭の毛にはクサやオデキができた時代を生きてきました。
社会人ならずとも私の家だった町は 大阪の郊外、昔は北河内郡三郷町(現 守口市)
と言われたところです。
松下幸之助氏は、大阪の鬼門にあたる安い街に松下電器、サンヨーと軽家電工場を設けたのです。
あの辺りはシャープやオンキョー 新日本電気(NEC)の下請けが多くあり、
景気変動ごとに多くの家内工場が生まれては潰れていく様を見てきたのです。
夜逃げする友達家族、逃げてきた家族など
私にとっては 貧しさの恐怖が身についているのです。
やっと社会人としてスタートした昭和41年 オリンピックで沸き返った日本も
その2~3年後にはその反動で、オリンピック不況が訪れたのです。
昭和48年3月1日 タナベ経営に入社し、
経営コンサルタントとして歩み始めたその秋に、1バール2.5ドルの安さであったのが、
たちまち20ドルに、そしてあれよあれよという間に 40ドル、そして、80ドルまで上がっていったのです。
当時、私の住んでいた千里ニュータウンから
トイレットペーパーがなくなりましたが、なにしろ、なんでもなくなったのです。
急激なインフレ、物価狂乱を迎えたので
「毎日のモノの値段が上がるので、会社は特に原材料(段ボール、石油製品、鉄、タイルセメント、 木材等) 溜め込んだのです。
よって、それらを持っているメーカー、商社は 昭和50年、51年の決算は大黒字でした
しかし、次の年の昭和52年はその反動で、大不況。次々に会社は潰れていったのです。
原材料は高い、売れない、それを使って製品にしても 又、売れないからです。
私は、それらの渦の中で、悪戦苦闘、肉体的にも精神的にも参りましたが、
今となっては良い経験をさせてもらいました。
よって、世の中 何が起こるか全くわかりません!
コロナ騒ぎも昨年末には 誰も予想しなかったことです。
新節を迎えた中国からまた、爆買いに来てくれると思っていたのでしょう・・・
突然、大変化が発生し、貯えや準備のない会社や人間は 潰されてしまうのです。
良いことは長くは続きません。
しかし、生き残った人や会社は 立ち直って 良い目をするのですね。 多くのそれらを見てきました。
よって、私は「マサカの坂」に対処せよ と申してきました。
貯えのある人間、会社にしておくべきなのです。
(井上和弘)
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